
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> ちよか2

筑後南部では柳川周辺の「ちよか」ですが、
全国的に見ると「鮎」「調布」などとおなじ
「中花まんじゅう」の仲間です。
1852年に刊行された菓子製法書「鼎左秘録」にも
次のような記述があり、
古くから作られていたのがわかります。
鼎左秘録「中華饅頭」
鶏卵大 一つ、雪白砂糖 拾匁、うどんの粉 拾匁
右三品、カステイラの方の通り、能々すり交ぜたる処へ水を入れ、
ゆるくどろりとなるやうに煉りまぜ、赤がねの皿の上へ、
ながし焼きにして餡をつゝむなり。
あんの仕やう、前に記す。
で、写真は北海道の十勝地方、
芽室の名物「中華饅頭」と「ちよか」の比較。
中華饅頭が長さ15cm前後、
100gを超える大きさであるのに対し、
ちよかは9cm弱、40g程度と小さくて上品。
「ちゅうか」と「ちよか」、なんとなく響きが似てるし、
姉妹品って感じですよね。
ただ、筑後南部ではやっぱり柳川限定。
これだけお店がかたまってるんだから、
食べ比べツアーとかできるんじゃないかと考えてます。
手始めに、柳川ゆるり旅あたりでとりあげませんか?
※柳川ゆるり旅
http://yanagawa-yururitabi.net/
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> ちよか3

先日、柳川市蒲生の御菓子司廣松宝来堂で
「ちよか」づくりを見せていただきました。
皮を焼き、餡をのせ、丸める。
まさに匠の技でした。
焼きたての「ちよか」は、また味が違うんですよ~♪
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 筑後平野の小麦1

北海道に次ぐ全国第2位の小麦産地である福岡県ですが、
筑後地域で昔から栽培されていたことがわかる記録があります。
明治7年に作成された三潴県(三潴郡、大和郡、三池郡、上妻郡、
下妻郡、生葉郡、竹野郡、山本郡、三井郡、三原郡)
の物産表を見ると、
小麦上 42,143石(約7,602立米)
小麦下 18,776石(約3,387立米)
と、お米の次に多い収穫量となっています。
また、穀質澱粉類には
麺粉(小麦粉) 9,945石(1,793立米)
と記載されており、
当時も小麦を粉にして食べていたことが分かります。
筑後南部で「丸ぼうろ」が食べられ、
「かすてら饅頭」が生まれた背景には、
その原料となる小麦が盛んに生産されていたことがあげられそうです。
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 筑後平野の小麦2
筑後平野で盛んに生産されていた小麦ですが、
小麦粉にするためには挽かなければなりません。
そのとき役に立ったのが水車と石臼です。
八女市にある江戸時代中期創業、
田中製粉では古い石臼を見ることができます。
この石臼はつい60年前ごろまで現役で使用されていたもの。
そのころは筑後川の支流である山ノ井川を工場内に引き入れ、
水車、石臼を動かしていたそうです。
※田中製粉のブログ
http://www.tanakamill.com/?p=1513
筑後平野の豊かな実りは、
筑後川や矢部川が作った肥沃な土壌のおかげ。
収穫した小麦を和菓子の原料となる小麦粉にできたのは、
石臼を動かす水車が川の流れを利用できたおかげ。
そして、砂糖が入手できたのは、
有明海の干満の差を利用した
筑後川や矢部川の水運が発達していたおかげ。
丸ぼうろやかすてら饅頭など小麦粉を使う筑後南部の菓子文化は、
筑後川や矢部川のおかげで発達したのかもしれませんね。
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 筑後平野の小麦3

和菓子ではありませんが、
筑後南部には小麦粉でつくる素朴なおやつが残っています。
そのひとつが「ふなやき」。
和風クレープとも呼ばれる「ふなやき」ですが、
その起源は千利休が好んで茶会でつかった
「ふのやき」だとにらんでいます。
というのも、1718年に刊行された、
日本でもっとも古い版本の菓子製法書
「古今名物御前菓子秘伝抄」に書かれた「ふのやき」が、
いまの「ふなやき」と同じ作り方なのです。
古今名物御前菓子秘伝抄「ふのやき」
小麦を、水にてしるくこね、小さき平銅鍋にくるみの油をぬり、
少つゝ入、うすくひろけ、やきて、むきくるみをきさみ、
山椒味噌、白さたう、けしを、中へまきこめ申候。
一流の文化人だった初代柳河藩主、立花宗茂が、
千利休から「ふのやき」を教えてもらい、
柳河に持ち帰ったんじゃないか?
そんな酔狂なことを言い出すかどうかわかりませんが、
江戸時代から続く田中製粉の八代目が「ふなやき」講座を開催します。
ぜひご参加を。
※小麦のプロが教える「ふなやき」手づくり講座
平成30年11月3日(土)・4日(日)16時~17時
定員20名、参加費はおひとりさま1000円
お申し込みは九州芸文館までどうぞ~。
(エプロン、三角巾をご持参ください。)
電話0942-52-6435(九州芸文館)
(随時受付中 9時~18時 月曜日は休館)
内容はこちら
http://chikugonanakokuwagasihaku.yoka-yoka.jp/e2055350.html
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 筑後平野の小麦4

筑後南部、特に八女市で食べられてきた
小麦粉を使ったおやつ「いもまんじゅう」。
茹でたジャガイモまたは里芋を、こねた小麦粉の生地で包み、
茹でるか蒸したしたものです。
元々家庭料理ですが、駅前まんじゅう(八女市黒木町)の他、
スーパーや農産物直売所などで見かけることができます。
※じゃがいもまんじゅうレシピ(八女市役所)
http://www.city.yame.fukuoka.jp/kenko/1/4/1457320363951.html
まんじゅうといっても塩または醤油で味付けしたもので甘くなく、
何も知らずに食べると「何だこれ?」って面喰いますw
和菓子体験講座「老舗和菓子店主とつくる和菓子講座」で、
和菓子店主との和菓子トークをしていただく
和菓子コーディネーターせせなおこさんが、
動画付きで「いもまんじゅう」を詳しくレポートしておられます。
どうぞご覧ください。
※福岡伝統の幸せの黄色い郷土菓子
https://www.kurashiru.com/features/279
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 和菓子屋さんはどこにある?

きっかけは、あるスタッフのひとことでした。
「和菓子屋は国道沿いに多い(という意の大阪弁)」
そこで、ネットで調べまくって和菓子屋さんの位置を特定。
マップに落としたところ、
和菓子屋さんは次のような場所にあるのがわかりました。
〇旧街道沿いの宿場町、城下町、在方町に多い。
・薩摩街道(国道443号線)
・三池街道(国道443号線)
・肥後街道(県道701号線、国道208号線)
・矢部往還(国道442号線)
・柳川城(柳川市)、福島城(八女市)、猫尾城(黒木町)
・矢部川の渡し(長田、瀬高、中島)
※国道3号線沿いにないのは新しい国道だから?
反対に和菓子屋さんが見当たらなかったのは農村地帯。
農家の皆さんは、
和菓子の原料になる米、麦、小豆などを自給自足しちゃうから、
わざわざ和菓子を買う必要はないですからね。
ちなみに、写真は旧矢部街道沿い、
八女福島にある「菓子処きくや」です。
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 柳川市民は和菓子がお好き?

筑後南部地域にある和菓子店数を人口あたりで見てみました。
最も多いのは八女市矢部村で人口千人あたり1.64店。
お菓子専業のみに絞っても0.82店なので、堂々の1位です。
あちこち探しまくったのですが、探し出しきれませんでした。
やはり農村地域に和菓子屋さんがないということなんでしょうか?
このなかでスタッフが注目したのは合併前の旧柳川市。
人口3万5千人を擁するなかで、
千人あたり0.36店とかなり多いのです。
ただ、その理由がわかりません。
地域独自の和菓子「ちよか」もあるし、
柳川市民は和菓子ラブなんでしょうか?
知り合いの ×カレー屋さん 〇お肉屋さん に聞いたところ
「お寺さんが多いからじゃない?(という意の柳川弁)」との答え。
その時は意味が分かりませんでしたが・・・。
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 和菓子屋さんはなぜ減った?

上の写真はみやま市瀬高町本郷にある和菓子店、
西田製菓の店内にある立派な看板。
そこには「祝祭佛事御料理菓子調進所」とあります。
これは、お祝いごとや不幸があったときの
料理やお菓子の注文を承りますということ。
専用の式場がなかった昔は、
自宅や公民館などで結婚式やお葬式が行われていました。
西田製菓では、その際にふるまわれる料理やお菓子の注文を受け、
お菓子は自分でつくり、もしかしたら料理は別途注文して、
揃えて届けていたのでしょう。
西田製菓のように料理の注文まで受けるかどうかは別として、
以前の和菓子屋さんは店頭販売の他に、さまざまな結婚式やお葬式、
年中行事の際に食べられるお菓子の注文を受けていました。
地域の人々にとって和菓子店はなくてはならない存在だったのです。
しかし、結婚式場、葬祭場が整備されると、
和菓子店へのお菓子の注文はへり、
年中行事の際の和菓子のふるまいも減りました。
地域の人々の生活習慣が変わり、
地域密着経営だった和菓子店が地域と密着できなった、
それが和菓子店が減少している
原因のひとつではないかと考えています。
そう考えると、柳川市になぜ和菓子店が多いかという問いに対する
×カレー屋さん 〇お肉屋さん の答え
「お寺さんが多いからじゃない?(という意の柳川弁)」が、
あながち間違いではないという気がしてきました。
つまり、
お寺さんが多い
→熱心な仏教徒が多い
→法事などをしっかりやってる
→来客にお菓子をふるまっている
→和菓子屋さんの仕事がある
風が吹けばみたいな推測ではありますが、
柳川に和菓子店が多いのは、
「地域が和菓子店を支える構造が、まだ残っている」
ということなのではないか、そう思えてなりません。
2018年10月16日
<筑後南部の菓子文化> 堀川製菓が矢部村にある理由

八女市矢部村は八女市役所本所から東に30キロほど、
熊本県境に位置します。
矢部村にある専業の和菓子店は堀川製菓だけなんですが、
人口千人当たりにすると0.84店で、かなりの高密度。
なぜ矢部村の和菓子屋密度が高いのか、
っていうか、堀川製菓はなぜここにあるのでしょう?
矢部村の東隣、
峠を超えた大分県日田市中津江村にあった鯛生金山。
金鉱石の採掘は終了していますが、
地底博物館として整備され、当時の様子が再現されています。
※鯛生金山
http://taiokinzan.jp/
鯛生金山の坑道は110キロ。
最盛期の昭和13年頃は東洋一の金山と呼ばれ、従業員は約3千人。
中津江村内には映画館や飲食店が建ち並び、
村全体が賑わっていたそうです。(地底博物館公式サイトより)
地底博物館公式サイトには中津江村のことしか書いてありませんが、
じつは、峠を挟んだ矢部村にも鯛生金山の坑道の入口があり、
同じように社宅が建ち、村がにぎわっていたのです。
で、矢部村の堀川製菓の創業は昭和10年ごろ。
つまり、金山で賑わう矢部村で一旗あげようと、
堀川さんが開店したということだろうと思います。
ただ、鯛生金山は昭和19年に休山。
昭和31年に再開するものの昭和47年に閉山してしまいました。
そうなると従業員は家族ごと転居し矢部村の人口は減少。
矢部村の和菓子屋密度が高いのは和菓子屋さんが多いのではなく、
人口が減ったのがその理由だったのです。
それにしても、そのような高い和菓子屋密度で経営を続けている
堀川製菓店主の堀川さんには、矢部村の皆さんに和菓子を届けるため、
いつまでも頑張っていただきたいです。